欲しいと思っているものがどのようにしてあなたのものとなるかについては心配無用だ。
もしあなたにそれらを所有する決意があれば、外的意図はあなたに無断で手段を見つけ出す。
だから、その手段について疑いを持ってはならない。後になって驚いたりしてもいけない。 また、これは偶然だとか、たまたま幸運が重なっただけだとか、それとも何か不可思議なことが起こったなどといって、自分を納得させるべきでもない。
誰が言ったかは思い出せないが、こんな言葉がある。「偶然とは、神が実名を明かしたくないときのペンネーム」もし、あなたが自分の夢の世界に対してたとえ一瞬でも崇拝の念を感じたら、そんな気持ちは追い払ってしまおう。それはあなたの世界であり、そこにはあなたにとって手に入れられないものは何もない。
外的重要性や内的重要性は、魂と理性の一致へと続く道に横たわる障害物となる。 あなたの夢の世界は楽しくなければならないが、同時にそれは日常の光景ともなっているはずだ。もしあなたの夢が実現したら、それはあなたにとって普通の当たり前のことになる。
しかるべき人生ラインに同調するには、あたかもすでにそうなっているような気持ちを持たなくてはならない。 これは自己欺瞞ではない。なぜなら、あなたは意識して演じているからだ。 所有する決意については、ロシアの新興成金たちの例ほどうまく物語ってくれるものはないだろう。
ロシアの億万長者の数は、今や西側先進国の億万長者の数を上回っている。 ロシアにおけるペレストロイカの時代である20世紀の80年代終わりに、浅はかな政治家たちは、 すべてを私有化すれば、社会主義経済はすぐにも市場経済に転換可能と考えていた。 その頃、うまい汁の吸える場所にいた者は機に乗じて、さしたる苦労もせず、瞬く間に巨万の富を手に入れてしまった。 社会主義の時代に国有であったものすべて、すなわち石油、ガス、金、ダイヤモンド、その他ありとあらゆる天然資源、工業資源、知的財産が、 一握りの新興財閥の手に握られてしまった。公共のものだったのが、個人の所有するところとなったのだ。
彼らが所有するためには、にわか成金ではない海外の本物の億万長者たちが富を築いてきたようなビジネスに励む必要はなかった。 うまい汁の吸える場所から一番近くにいた者にとては、ただ欲しいものを抑え込んで唸り声をあげ、「俺様のだ」と叫ぶだけでよかった。 法律上の手続きは、その後で行うのだ。
いったいいかなる理由で公共の財産が個人所有になったのか?もちろんあのような時代は、ロシアの歴史上、ほかに例がない。 財産の周りには賢い者や才知溢れる者がたくさんいたが、大半の者は何も得られなかった。所有することを自分に容認できた者が、掴み取るということをやってのけた。 新興成金たちに罪悪感、良心の呵責、ためらい、劣等感などは一切ない。 彼らは自分たちが所有するに値しないとは考えず、高級品店に足を踏み入れても、罪の意識を微塵も感じなかった。彼らには所有する決意がある、そのため、外的意図は平然として彼らに所有する現実を与えた。あなたは「まさか!」と声を上げるかもしれないが、本当にそうだったのだ。
この目的達成方法は、常識や一般的な考え方の枠を超えたものである。
最新知られるようになった従来とは異なる方法の中で、より近いものは、望んでいる目的の視覚化だ。
これは、望んでいることをできるだけ詳細にイメージし、その様子を自分の頭の中に維持するという方法だ。 一般的な考え方からすると、視覚化は意味のない時間の浪費に思われる。実際、道を踏破するのは歩く人であって、夢見る人ではない。
しかし、そうはいうものの、目的の思考上でイメージすることには、その目的達成のプロセスそのものと同じくらいに決定的な意味がある。 ただ単に「歩く人」は、常識の勝利に自分なりの貢献をしつつ、平均的な成果を達成し、人と同じように生きることになる。
しかし、自分の荷物の中にマニュアルを入れて持ち歩く修行者は、常識からすれば、「幸運」「偶然」「運命の寵児」などのカテゴリーにあてはまるような成果を得ることができる。 常識的な観点からすれば、すべてがひっくり返っているように思われるだろう。とはいうものの、常識に対しても同じことが言える。
もしあなたがみんなと同じようには暮らしたくないと望むなら、もしあなたが月並みな成功で満足したくないと思うなら、 そして、もしあなたが「盛りだくさんのプログラム」に載っているすべてを自分の人生で受け取りたいと願うなら、あなたを修行者と呼ぶことにしよう。 修行者は、運命の寵児ではなく、修行者の方が運命を選ぶのだ。
もしあなたが自分の常識という一枚岩を揺り動かすことができたなら、あなたは欲しいものをすべて手に入れることだろう。 それは決して雲間へと飛び去ることではなく、逆に地上へ降り立つことを意味する。
なぜなら、広く世間に受け入れられている常識とは、本当は地に足の着いたものなのではないからだ。この点についてあなたはすでに一度ならず納得されたことと思う。
しかし、まもなく尋常ではないもっとたくさんのものごとが目の前に繰り広げられるのを、あなたは見ることになるだろう。 まずは掲げらえた目的の視覚化が、いつも成果をもたらすとはかぎらない理由を説明したい。 密教や従来とは異なる心理学の熱烈な信奉者であっても、視覚化を完全には信頼することができないでいる。 視覚化には簡単なやり方もあれば、かなり複雑なやり方もある。何らかの成果があることもあれば、ないこともある。 私個人としては、このような精度では満足できないし、おそらくあなたも同じ意見であろう。どうか安心していただきたい。 視覚化は、決して一般に理解されているような視覚化ではない。それどころか、実際にとても良く効く。その信頼性は保証付きだ。
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