2024年12月10日火曜日

呼吸と体に意識を向ける

このブログでは瞑想や精神世界系の修行法についての言及を意図的に避けている。

参考書籍にはいくつかの実践的な瞑想法が紹介されているが、それを行いたい人は行えばいいという考え。
房中術などに関しては小周天の瞑想法などはほぼ必須だが、それすら要不要は個人の判断によるもので、
筆者が志す意味での不老長寿とは直接関係はないと考えている。

あえていうのであれば「ただ呼吸と体に意識を向ける」というだけの瞑想とも言えないようなリラクゼーションを意識的に行なっている。


自律訓練法を習得していて適宜取り入れてはいる。最も簡易的で誰でも習得可能な技法だと思う。

その方法は「呼吸している」「手足が重い」という言語公式によって

特定の状態を誘導するのだが、最近私が行なっている方法は「ありのままの状態を観想する」というようなことに近い。

しかし言葉にすればするほど実態とかけ離れていってしまうから、「呼吸と体の状態に意識を向ける」ということだけにした。


具体的なイメージ、呼吸法(テンポや回数)、坐法や時間の長さ、時間帯など全てフリーの設定である。

目を開けるのか閉じるのか、曼荼羅を使うのかアプリでタイマーをセットするのかそういうのも自由。


個人的にはいくつかの要素をうまく組み合わせればいいと思う。

例えば夜、楽に座って、目を閉じて文息を行えば副交感神経優位になる。

逆に日中、立ったまま、目を開けて武息を行えば交感神経優位でいられる。

そういった要素を適宜組み合わせればいい。



このブログにおいて他の実践でもほとんど全て同じ方向性なのだが、

「特定の行為や対象がある結果を導く」という因果関係から極力外れていくということを意識している。

瞑想をしたから気分がよくなる、運が良くなる、仕事ができる、集中力が増す、収入アップする、夢が叶うなど。

たしかにそうかもしれない。

瞑想することが条件付けになるだけで、方法に依存したり再現しようとしたりする心の働きが出てくる。

それは隙があればなんでも利用しようとする。

目標や達成という志向性そのものが未達成・ペンディングというステータスに留めるように働いてしまう。


機会があればぜひ試してみてほしいのだけれど「自分の手を動かしてコップを掴んで水を飲みたい」とか「坐禅で疲れて脚が痺れたからいますぐ体勢を崩したい」とか

いくら願ったところで思考ではどうしようもないということが観察できるはずだ。

多かれ少なかれ、現実で(大人になるほど)我々はこれと似たようなことを繰り返してしまっている。


目を閉じて呼吸と体を楽にするのが心地いいのであれば、あくまでそれが原理に適っているからで、それ以上でも以下でもない。

あえて解釈するのであれば「不自然な呼吸と姿勢を普段行なっているから息苦しさや居心地の悪さを無意識に感じており、

それを解消しようとするのだが思考でいくら何をやろうとしても無意味」ということになる。


禅の指導者とかマインドフルネス的なコーチがもっと上手く解説してくれるかもしれないが、

自分の心と体のことなので他人の解説とか書物とかいらない気がするんだよね。


心の働きや気分の変化がもたらす力の大きさを十分に承知しているがゆえ、あえてそれを操作しないことにしている。

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