アニメと音楽番組、一部のNHK BS以外はTV嫌いで通っていた筆者だけれど、
民法の番組でもあれは結構好きで観ていた。
モノボケ、サイレント、ショートコントなどいくつか与えられたお題に対して、
チャレンジャーは観覧席から無作為に選ばれた5名を笑わせてクリアっていうルール。
視聴者にはワイプで誰が笑うかどうかを見守って応援することができるけれど、
チャレンジャーには5名が誰なのかを知らされていないから全力で全員を笑わせに行くというスタンス。
やらせっぽいという批判は当然あったが(スポンサーや構成作家や演出がいるし、少なからず全ての公共電波の作品はやらせだろう)
番組の構成自体がクールで観ていておもしろかった。芸人さんたちも面白い人は面白かった。
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「人生、何事も深刻に捉えすぎてはよくない」っていうふうに私は考えていて、
ガチガチの長文を書いていたり、初対面では真面目そうな印象を持たれることが多いが
ふだんは相当ふざけた人間だと思っている。
発言の半分くらいは冗談だし、行動の3割くらいは冗談で、思考の8割くらいは下ネタという俗物的な人間だとおもう。
既にこの文章の半分くらいも冗談という勢いの適当さだ。
だから話半分なんだけれど(半分にしすぎてそのうちなくなりそう)
例えばやべー状況でも引いて見て喜劇にしてしまえばいい。
ショートコント「増税」とかモノマネ「金髪のカツラを被った大統領がぜったい言わないセリフ三連発」とか
すべてをコメディに置き換えるとなんとなくどうでもいい気になる。
ほとんどの人間が、どうせ自分とはほとんど直接的に関わりようのないことで悩んでんだろう。
自分と問題との距離を適切にとる、というスキルは単なる言葉遊びを通り越して有用だ。
身近な例で使いやすいショートコント「面接」とか「金欠したサラリーマンのモノマネ」とかでもなんでもいいし。
賢い人って面白おかしく自虐ネタを交えて話したり、文章を書いたりしているイメージ。
人命が絡むことだからそれ以上は述べないが、上記以外の社会的ないろいろな事象に対しても同様に有用。
積極的にバカに見せることと客観的にバカに見えることとの違いがないのなら、
いっそそれを逆手に取って利用してしまえばほんとうに人生コメディになるかもしれない。
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それはそれとして「多様性という言葉や概念を否定すると差別主義者と呼ばれてしまう」的な言い訳(?)をたまに目にすることがある。
ほんとうにそうだろうか?誰が誰をなにをもってしてどういう意図で差別主義者と呼ぶのだろう。
「多様性を否定する考えを持つ人を否定すると、多様性を尊重するというアイデアそのものが破綻する」という論理的な矛盾をはらんでいる。
「完璧主義者は完璧じゃない状態を容認できないという点で、完璧にはなれない」と同じロジック。
どうせ最初から綻びを含んだものなのだからショートコントや
「また新ネタやってんなあ」くらいの寛容さで生暖かく見守ってやればいいじゃない。
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拠り所にするのは「絶対的な真理」みたいな教義や信条ではなくて、
頭で考えだしたものよりは事象、感覚、思考全てが一致しているところにあると思う。
人それぞれ微妙に違っていてよくて、つまりそれぞれが少しずつ異なる世界に住んでいるといっても過言ではないとさえいえると思う。
目の前に展開しているものが現実であり(一瞬前に知覚された光の残像という夢見たいなものかもしれないけれど)
それを体感しているのは他ならない自分自身なので、それを信頼せずに他人の意見やイデオロギーにいちいち左右されてどうする。
・・・という私以外の拠り所にならない、(読んだ人から見れば)他人の意見を無意味に展開するというコメディ劇場でした。
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