2025年6月8日日曜日

与える=受け取る

前述のように(どの部分だよ)外部環境を含めて、目の前に展開する全てが自己を相対的に定義する要素なので
自分=外部といってしまってもいいくらいだ。

現実的には、他人に毛髪を引っ張られれば痛いし傷害罪として訴えるかもしれないが、
床屋や美容室だったらカットやスタイリングの動作の一部になるかもしれない、
切り取られた髪の毛を床から履いて捨てられても、不快に思うどころか感謝さえするかもしれない。

状況によって自分という定義はシームレスに変わっていくが、
変わっていく状況そのものが自己の定義に内包されているとしてしまった方がむしろ現実に則している。


大人になるに連れて視点が固着していってしまい、肉体という個体だけがイコール自分となり、
それが社会的な肩書や地位にまで及、それらをできるだけ無傷に延命することがトップ・プライオリティになってしまう。

体も地位も肩書も所有物ももちろん自分の一部だけど、順列・並べ替えがバグるとおかしくなっていく。

ある程度は理にかなった並べ方やセオリーみたいなものはあるだろうけど、それはそれでいい。

「そもそも自分や他人や世界を正しく捉える」「そのために構造的に組成を見直していく」ということも
自発的に動機づけられた人が勝手にやればいい。


便宜上、丹田の位置を体内に存在する器官と照らし合わせている。
下丹田は小腸、中丹田は胸腺、上丹田は松果体と符合させる。
それらの器官に代表される機能はいわゆる免疫のことで、生体の恒常維持に深く関わっている。

正しい姿勢でいると呼吸が整う。
呼吸と姿勢にイメージが伴えばそれだけで気功法になる。

息を吸う時に気が入ってきて、吐くとともに邪気を体から出すと書いてあるテキストは多い。
私はその部分は若干アレンジしている。


・物理空間はエントロピー増大、物質は崩壊に向かうが抽象的なイメージ空間では統合へと向かう
・願望を抱くことはエネルギーを蓄えることであり、受け取ることはエネルギーを解放することである


こういった物理と抽象のやりとりで切り替わる特性を踏まえると、
息を吐き出す時に気のエネルギーが任意のツボや経絡に流入して、
息を吸い込む時には同様に体内の気が外部へと流れていくと想像する。

これを癖にすると物事の捉え方が変わってくる。
「邪気をもらってしまった」とか「エネルギーが奪われてしまった」というエナジーバンパイア的な現象が激減する。

”邪気”とか”とられる”という発想は、自らを被害者の位置に固定する思考なので、
これではいくら気のトレーニングをして心身が丈夫になっても、有限をすり減らすことには変わりない。


確かに物質的には目減りする。
例えば所持金が1000円で、500円を払ってカフェでコーヒーを頼めば、物理的に手元のお金は1000−500で500円になる。

これをスピリチュアル的な解釈で「お金は使えば使うほど増える」という捉え方をすると辻褄が合わなくなる。

物理現象は減っているように見える。財布から渡したなら減ってないとおかしい。
しかし”コーヒーを飲む”という体験と500円を交換できた。
そして手元にはお釣りか残高の500円が残り、
レジスターには1000円札だか100円玉5枚だかはわからないが差し引きで500円残ることになる。
トータルで価値自体は増えている、ということに。

(人件費とかテナント料とかコーヒーの原価は一旦置いておいて)体験という抽象的な現象、
いわばイメージ空間のエネルギー現象としての部分は増え続ける。


金銭授受に関わらず、SEXや対人関係などでも同様で何かを受け取る時は、与える側の豊かさが存在して
自ら差し出して与えるときは受け取る人が存在する。

双方が「受け取りたい、損したくない」というような、有限が目減りする思考だと
やがて離反していくというのはわかりきっている。

双方があたえるGiverの思考になったときに初めて円環が完成する。


かなり道徳的な話運びになってしまった。
言い古されたことだが、基本に忠実にあればあらゆる実践はめちゃくちゃシンプルになると思う。

禁欲、蓄精、気功やその他の知識や実践を始めた頃は
「これをやれば(やっていない他人より)有利になる」という思考だった。

いや、始めた頃というのは嘘かもしれない。
参聖記というブログを書き始めた3年くらいまでは間違いなくそうだった。

性エネルギーを正しくロスなく高めてぶち上げて、突出した存在となることで、
既存の強力なコミュニティに参画、あるいは風穴を開けるというスタンスだった。

完全な誤りだといまではわかる。
うまくいかなくなるカップルの話と同じで、”奪うもの”という思考そのものだった。

あと、そもそも「大多数はどうせできないだろう」と自分だけが秘技を習得・実践できているという驕りもあったと思う。

情報源の書籍や先人が存在するということは、すでに実践してマスターして教え伝える人がいるということだ。
世の中のたいていの情報は全てそう。
自力で正解に辿り着く人もいるし、実践するまでもなく正しく強くエネルギーを回せている人もいる(知人にはいた)。

たどり着いた先にも性エネマスターがゴロゴロいて、
何なら独自の房中術などの流派ですらあるかもしれないという当たり前のことが盲点になっていた。

何らかの道を極めた人は同じ境地なので、異質な存在(この場合は奪うだけことを考えている人)である
自己利益の追求者は排斥されるだろう。


けっきょくどのように遠回りに見えても、自分の正しさを立脚して、試行錯誤の上に研磨していき
人格的にも相応しい器であると本心から振る舞えるように生きることが、
一番まともな道なのだと思うに至る。








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