2025年6月25日水曜日

美人は得するのか

 美人っていうのはものすごいざっくりいうと容姿がいいと他人に評される人のこと。

男も同じで、だからイケメンは得するのかとしてもいい。


何をもってして”容姿がいい”んだよと思われたら、とても的確な指摘です。

まさにこの話の核になる部分だけれど一旦無視する。


まず「美人が得をする」という現象は相対的に形作られている。

すなわち実際はもっと残酷で、「ブスが損をする」というのが実際のところだろうと思う。

”得をする”という定義は難しいが、いい思いをするみたいなことだろうか。


ブスが嫌な思いをする、と字面で書くとパンチが強いが美人は得するの対義語というよりは、

現象を別の角度から眺めた単なる文字列だと思えばいい。



前提として、以前書いた記事「0736は社会に迷惑」という記事を参照されたい。

これはベッチーこと苫米地博士がメディアのインタビューに答えたものをまとめたのが元ネタ。

元々のタイトルは「ブスは社会に迷惑」という切れ味バツグンのタイトル。


ブスの定義は簡単でエフィカシーが低い、つまり”自己の能力に対する評価の低い人”と定義づけられている。

能力の高さではなく、自己の能力に対する評価なのが決定的なポイント。


つまり本記事の最初に出てきた”何をもってしてよしとするか”の部分はここで解決する。

「自分がいいと思ったらいい」で終了となる。



ブスが嫌な思いをする、というのはやや強烈なフレーズだが

「嫌な思いをしたくない」がマインドセットになっていることだと考えれば、かなりの人が当てはまるはずだ。


対して美人はどうかというと、容姿が相対的にポジティブに目立っていることで

人生の早い段階から役割を与えられることが多い。


例えば幼稚園や他のお子さんの親御さん、親戚などの他人から話しかけられたり、

学校へ入ったら学級委員を任されることになったりなど相対的な経験値が増える。


美人がスポーツや学業の成績がいいというのは単なるハロー効果やピグマリオン効果が働くかどうか以前に、

試行回数の圧倒的な違いが差となって現れているだけだといえる。

裏を返せばあれこれと(自分が思っているセルフイメージとは違う)社会的にいい振る舞いを求められて嫌になる、と考える美人も多いだろうと思う。


ブス側の心理として私が代弁すると、

「他人の理想を求められて嫌になる」というイケメンな悩みというよりも

「期待に応えられる自信がない」「適応的に振る舞えない自分が嫌になる」という根暗っぽい発想に向きがちになる。



「可愛いは作れる」が「ブスは隠せる」の言い換えだと聞いた時、なるほどと合点がいった。


ただ化粧や声色やファッションで上辺だけ取り繕っても、マジもんの美人には到底及ばない。

前述のように幼い頃から社会的洗礼とも呼べる英才教育を無意識に施されている。

無意識的反射的に、筋肉に電気信号を伝えよと脳が指令を出す前でもなく、最適な姿勢と表情筋をコーディネートできるように訓練されている。


すっぴんで負けている上に化粧も上手いから敵わないね。

ルッキズムなどを引き合いに出すまでもなく、社会がそれを後押ししている。


ここまで美人だのイケメンだの書いてきたが、顔面の美醜は相対的に規定される。

目鼻立ちが理想的な黄金比に近いなどの法則性はあるかもしれないが、

たとえば無人島に人間が一人しかいない、それが橋本環奈とか新田真剣佑だったとしても

美醜の比較対象がなければ美しいかどうかの判断材料さえないということになる。



ここまでをまとめると


・美人は得するのではなく、試行回数が相対的に多いだけ

・翻ってブスが損しているのは、試行回数が少なく、

 ポジティブな結果に挑戦するというよりネガティブな結果を避ける思考になりがちな部分

・ブスの定義は”自己能力に対する評価”が低いこと

・美醜は他者が勝手に、経験に基づく比較材料をもとに判断する相対的なもの


結論としては、

他者評価に基づいて比較した上で自己能力に対する評価を変えなければブスのスパイラル

略してブスパイラルから抜けることはできない。


逆に言えば、自分の能力に対する評価を意識的に肯定的に上げていけば、

即座にその下降スパイラルを止めることができる。


おきまりのポジティブシンキングではなく、ポジティブアクションなので行動ベースで考える。

全然思いつかないんだけど、例えばコンビニでお茶を買った時に笑顔で店員さんに「ありがとう」と言ってみる。


ボソボソとした声で聞き取れないし、笑顔は引き攣っているしで

「なんだこいつ」という顔をされたり「はい?」とか怪訝に聞き返されるかもしれない。


「あぁやっぱダメだ」と思ってしまってもいい。

ひとつトライして、何かのフィードバックを得られたことには変わりないので「よくできました」スタンプを自分に押す。


実際に買ってきて、スタンプカードを作ってみてもいいかもしれないね(まじで思いつきで書いてるだろ)

「今日も声に出せた」とか「言おうとして逃しちゃったけど、ナイストライだった」とか

小さな経験値を無数に積み上げていくことに意味がある。


これは高評価しかつかないVlogみたいなもので、行動しようとするマインドセットさえできてしまえば

否が応でもプラスに作用しつづける。


いま燦然と輝いてる美人やイケメンも、これに類するトライやネガティブなフィードバックは無数に受けてきており、

しかもより高いレベルで今日も絶えず批評に晒されている。

いい練習だと思えばいい。



そんなところだろうか。


私はどちらかと言わずともインドアな陰キャでコミュ障だったけれど、

それこそオナ禁を始めたときくらいから本当にいろいろな面で自己改善をしてきた。


もっとも長く苦心しながら試行錯誤したのが対人コミュニケーション。

当時はたぶんコミュ力という言葉すらあまり一般的ではなかった。

だからマインドセットがよくわからず、とにかく自分の描く理想像とのギャップを埋める作業だった。


別にそんなに人によく思われたいわけでもないし、

今でも他人とどうでもいい話をするなんて楽しいとも思わない。


ただ社会的な生き物として生活する上でそれなりに楽しくやっていくには、

ハッタリでも作り物でも美人イケメンコミュ強の方がおもしろい部分が増える。


「何も賭けずに損する一方より、ベットする機会を増やしてワンチャンプラスなればいいよね」


という酷く打算的な思考でやっているにすぎないけれど、

まあまあ、自分が楽しくて周りにもいい感じが伝播すりゃそれに越したことはない。


世界平和だとか争いのない世界だとか大上段に構えるつもりはまったくないが、

意外と卑近で世俗的な積み重ねの先にそれが実現されているんじゃねぇのかなと

よく考えている今日この頃ではある。


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