日本に生まれ育っただけで、相対的にはかなり恵まれて幸せな環境にいるといえる。
決して他の国をディスったり、貶めたりしている訳ではない。
実際さまざまなデータでは国民所得や幸福感などの観点において、先進諸国の中では下位に位置している。
しかしあくまで主観として、そして観察の結果としてやはり恵まれているなと思う。
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そんな恵まれた環境下においても対立構造は存在する。
人種や貧富の格差というよりはイデオロギー的な対立であり、それはあるタイミングを境に激化しているように見える。
そこには経済的、社会的な地位の差異や学力的な意味における賢さや頭の良さも多少は関係しているかもしれない。
意図的なのかもしれないが、高い知力や財力を持つ人間が、
現在の倫理的・社会的規範においてはどう考えても誤りあるいはミスリードしているとしか思えない例もあるので、
あるいは頭の良し悪しは関係ないのかもしれない。
私はTV世代ではないからそこはよくわからないが、Netflixは契約している。
「イカゲーム」という作品が社会現象になっていたはずだ。
ヒットした作品の続編はつまらないという法則を無視して、2も負けずに面白い。
イカゲームではおぞましいデスゲームが行われるが、その参加者の多くは究極二択を間違えた人たちで構成されている。
レートが悪すぎるギャンブルに半ば強制的に参加させられるが、
そもそもその会場に足を踏み入れている時点で、正誤判断をミスりまくってきたという側面もあるといえばある。
それがまた視聴者の共感を呼ぶ構造にもなっている。
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創作物なのでそれはそれとして、何が正しいのか正誤の判断が難しい場面というのが現実場面にも存在する。
現実はマークシート式ではないし、与えられた語群から適切なものを選べるわけでもないし、
途中式が合っていたら部分点をもらえるわけでもない。
イエスかノーか、受け取るのか拒否するのか、進むの留まるのかなど
物理的な行動としてしっかりと結果が反映される。
とある選択の結果が後々間違っていたとわかったとする。
その選択の論拠をできるだけ自分が集めたデータを元に、
自分で考えて判断したものだとしたらある程度受け入れることができる。
次(なんてないかもしれないが)は間違えなければ良いだけの話だ。
問題はある選択を「周囲の人間や集団の圧力によって選ばされた」と主張する人間だ。
これは「広告でエッチな映像が流れてきたから、ついついタップしてシコっちゃいました」みたいな言い訳にすぎないと思う。
人間は社会的な生き物なので、集団や環境の影響は好むと好まざると受ける。
しかし判断の根拠を他人や環境のせいにしすぎるとよくない。
もし正しい判断ができた場合は得るものがないし、間違っていた場合は次も間違える。
彼らはわかりやすく他力本願なので、カルト紛いの霊感商法じみたものやセミナー、サロンなどに入信してさらに搾り取られる養分と化す。
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一方で自分で判断できる力を持った側、圧力をかける方はさらなる問題となりうる。
圧力を正しく使った場合はカリスマやリーダーシップと捉えられ、集団を導く存在となる。
しかしもし判断に何の根拠もなく、雰囲気だけで行なっているのならば
選択問題がたまたま当たっているだけのイカゲーム直行予備軍だ。
圧力をかけた上に選択が間違っていた場合、しかもそれが意図的な場合は
かなり強い言葉でいうと殺人教唆、自殺幇助のようなもので、
責任を問われても負いきれないレベルの取り返しのつかないことになる。
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人間は集団で生きているので、多かれ少なかれ軋轢や摩擦は発生する。
圧力は誰もが無意識に感じながら、掛け合いながら生きている。
意識的に圧かけるのはできればやめていただきたいが、そうすることでポジション的に得する人間が多いのも事実。
私もこれを読んでいる一般ピーポー(死語)と同じで、社会的にはやはり弱者である一介の小市民に過ぎない(失礼すぎ)。
圧力自体、避けることができないものならば、同調しなければいい。
自分で考えて自分で決めて選択するだけでいい。
選択が合っているかどうかはその次の段階の話で、まずはスタート地点に立つこと。
そしてその繰り返しだ。
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ブログテーマ的に考えて、さらに蛇足ながら追加すると、
中心感覚が養われると直感がもっと使われるので、気や波動などの感覚がわかるようになってくる。
わからないならそれはそれでどっちでもいい。
自己という感覚、認識ができあがっているからこそ、
相対的に他者や物体、場所などの固有の振動数みたいなものがわかってくる。
元から天性で感覚が鋭い人ももちろんいる。
この場合、社会的なアイデンティティを確立するという意味の自己ではない。
それは自我の延長線上にある共同幻想のようなもので、
たとえば電車で隣に座った女性の髪の毛を触ったら痴漢だが、
空いている電車に落ちていた髪の毛を拾っても(怪訝な目で見られるだろうが)べつに捕まらないというようなレベルの話だ。
自己と他者というのは絶対的な区別はなく、あくまで相対的な距離にすぎない。
自己は、例えば免疫機能を考えればわかるように「確立」したり「獲得」したりするものではなく、
生得的に分類されている個体ということだ。
話をもどすと、他人の意見に簡単に流されないことと自分でパワースポットを見つける
というようなスキルは離れているように見えて本質的には同じことだ。
同調圧力という何とも都合のいいワードをきっかけに、
それを要素分解してみて何か行動の変化にするといいかもしれない。