2025年5月11日日曜日

種馬の自己実現

とある美術展に行ってきた。
途上、映像での作品紹介を事前に申し込んでおいたのだが、道路状況の混雑で到着が開始に間に合わないことが確定した。

リーフレットには上映は30分程度とあり、ナビ案内で到着は20分遅れ。どんなに飛ばしても常識的に考えて間に合わない。

常識的に考えた結果「まぁなんだかんだ全部見れることになるだろう」と楽観的な意思決定をした。
果たして到着は間に合わず、すでに上映が開始されていたが係の人が「席を確保してありますよ」と後ろの端のいい席を案内してくれた。

上映が終わった後に「この後ほぼおなじ内容で紹介だけではない、コメント付きの映像を流します」とアナウンスされた。
会場にいた人たちはほぼ席を後にしたが、けっきょく解説と作品紹介の映像をまるっと見ることができた。


こういう体験談はきっと山のようにあって、多くの人が見過ごしていると思う。
私自身もたぶん見過ごしているのだが、今回は「現状認定(自力ではどうにもならない)」から「充足を意図」して「望ましい結果を受け取る」が絵に描いたようにスムーズだったこともあり記念に記述しておく。

別の美術館に行ったときはたまたま並んでいた列の前の人が「あまったからいります?」とペアチケットをくれたこともあった。
「ザ・チケットの108さんが『パラレル』で紹介していた子供時代の体験談とほぼおなじだ」と思って驚いた記憶がある。

取り止めのない内容になったが、願望実現として何らかの因果関係を示す方法って無意味だなと思うことがある。

「すでに叶ったようなイメージングをする」という潜在意識活用メソッドなどはもちろんのこと。
事前に準備や予約していようと、その時点でいくらお金をもっていようと必ずしも特定の望ましい結果につながるとは限らない。

たしかに特に自身の力ではどうしようもないとき、手綱を手放しやすい傾向にある。
現実なんて自我が都合のように重要度、あるいは時系列順に並び替えした解釈のひとつにすぎないのだから

「ダメかもわからんね。ところがどっこい、なんとかなるんですよ」

という適当な身軽さで、なんでもサクッと自我が思い描いた以上に実現していけばいいと思う。
っていうかすでにうまく行っていることを過小評価せず、再発見していくだけでいいとすら思う。


本題としては、以上。
補足として美術展の内容を私的に解釈。

ある男性画家の個展なのだけれど、それは本当にもうわかりやすいくらい性的な自己昇華のストーリーだった。

・幼少期、性的な欠落感を自認してしまう。それは小さい未熟なペニスをモチーフとして出現する。
・青年期、懐かしい原風景や理想としての女性像、都会的なユートピアなどを含みながら自己を立脚する。
・成人から壮年にかけてそれは雄々しく屹立した男性器を想像させる、巨大なオベリスクのような形象としてあらわれる。
・老年期にかけて、未熟だと思われたモチーフと和解を果たす。
 それは射精のあと硬さを失ったペニスのようでもあり、ひとつの役目を果たしたあとは幼少期の未発達な性器と重なるところがあった。


もちろんあからさまに男性器とかセクシャルなイメージを用いてはなかったけれど、
見せ方も形象もあきらかにそれとわかるようになっていたと思う。

観覧者の感想を読んでみると概ね女性からのコメントで、そのモチーフを「かわいい」と称する声が多かった。
たしかに射精後、萎えたペニスをカワイイっていう女って多いよなと賢者タイムのようなことを思った。


男性はそれ自体では何かを生み出す、ということは根本的にはできない。
女性単体でもそれは叶わないことではあるが、受胎してから産み、授乳するという生得的なスキルは、
どう贔屓目に見ても男性よりはるかにクリエイティブで生命力の躍動に溢れている。

その点、我々男性は生命の誕生の奇跡の触媒、DNAキャリアとしての存在役割が一通り与えられた任務であるといえる。
男性が生まれながらにして、一種の欠落感を抱えて生きるのは当然だといえる。

やたらと高いタワーを建てたり住んだり、クリエイターという呼称を誇示してみたり、数的な価値基準でマウントを取ろうとするのが大幅に男性陣に偏っていて、
それを成り立たせるために社会システムの基礎が作られていることからも明らか。


男性は必死に働いて金を稼ぎ、何回か精子を中出しして用済みになる種馬なのだろうか?

そういうふうに考えて諦めるのもひとつの手、というか大多数の無意識になされる合意だと思う。
あるいは種馬にすらなりきれず、ただただラットレースに参加しているだけの人もいる。



どんな生き方をするにしてもいいんだけれど、こう考えることもできる。
一回の射精で放出される精子は平均2億。
約3ヶ月で1タームとしても、数日で満タンになるように精通後死ぬまで一生涯生産されている。
どう考えても一生で残せる子孫の数に対してはオーバースペックである。
射精直後はたしかに疲労するが、カマキリなどのようにメスに食われるのではなくそのまま生存する。

ニンゲンのオスは最初から性エネルギーの余剰分を使いまわせるようにできている。
あるいはそれは女性にはない意味でのクリエイティビティの発揮かもしれないし、
肉体的なパワーの健全な活用かもしれない。YoutubeやNetflixをごろ寝しながら見るためかもしれない。


どんな生き方をするにしてもいいんだけれど、
鮮やかに生きて最後は内在する弱さと手を取り合ってこの世界から立ち去っていこう。


そんなようなメッセージを作品群から受け取ったり、受け取らなかったりしましたね。


(どこの何展か書かないまま消化不良気味)


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