そういえばnoteって気持ち悪い記事多いよなと思って検索してみたら
お前の正義に反抗したいというnoteがヒットした。
普段なら開かないようにしているのにnoteでnoteの批判を書いているから珍しくてつい読んでしまった。
そのほかにも夢みがちなアイドルオタクや行きすぎた興行スポーツ選手信仰、ふるさと納税などについても
ズバズバ書いていたっぽいので幾つか読んでみたところなかなか納得いく話も多かった。
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最近はリハビリを兼ねて極力1日一本は記事を書くようにしてみているが、特定の対象に対して燃えるような批判的マインドになれない。
お蔵入りした2022年くらいの頃の記事を読み返すと、明確に何かに対するヘイトと自分なりの正義感みたいなものがあった気がする。
これまでも今後も変わることなくまずは自分のためだけに文章を書いていたい。
読み手があきらかにどこにも行けないようなただの悪口の塊みたいなものは段々と書けなくなっていくものなのかもしれない。
どんな創作物でもまず一番最初に目にする(耳にする)のは自分だ。
量子論(完全に理解しているとはいえないにしろ)的な観点からは、観察者がいるから結果が観測できるということだ。
この世のあらゆる事象は自分というフィルタを通じてでしか知覚できないし、
なんなら知覚するからこそ物理現象が存在するのかもね、という話ですらあるようだ。
物質ではなく情報の方が本体、少なくとも行動が先で解釈が後だという考え方は一般的になりつつある。
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変化し続けるということだけが普遍的な事実で、気がつけば延々と同じところを堂々巡りしているようでも
一周まわっているようなこともけっこうある。
逆に変わらないでいるつもりでも、無意識に細胞は入れ替わり、髪や髭は伸び、
少年は青年に、商店はコンビニに、春は夏へとかわっていく。
大学1年性の何回目かの講義である教授が言った言葉が忘れられない。
"人生では基本的に”やるべきこと”はなにもありません"
この後に続く言葉は特になかった。
「だから好きなことをやりましょう」とか「それでもなすべきことがあるから見つけましょう」とかそんな美辞麗句を継ぐことだってできただろう。
その当時は私はまだ二十にもなっていなかったからすこし不思議に感じた。
同時にこの言葉がこの人が講義全部をあわせたよりも一番言いたかったことだろうとなんとなく思った。
その初老の教授(学外からその授業を受け持つために来ていた)はその年をもって退官したらしく、二度と構内で見かけることはなかった。
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なんとなく春は普段は思い出すことのない二度と会えないような人のことが次々と頭に浮かんでは消えていく季節だなと思う。
華麗に咲いては散っていって戻らない桜の花びらみたいに。
それをいえばどんな花の花弁だって枯れて散って戻らないわけだけど。
なぜか桜の花だけ過剰なまでに人々を惹きつけるのは、
やっぱり無意識に愛別離苦、会者定離のような感覚を重ねてしまうからなんだろうな。
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