他の人は大変努力がいることでも労せずできてしまったり、自然とこなせることがある。
前記事で触れた元友人のMももちろん同様。
私では到底真似できないようなスキルがあった。
性格と嗜好が異なるから友人として合わないというだけの話。
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経済的に圧倒的なものかどうかはさておき、成功とは
得意なことx好きなことx外部要因(環境とタイミング)
という図式で表わせるようになっているとおもう。
自分が主体(でしゃばるとか主張するのではなく自主的にという意味で)となって行動することが前提にある。
性エネルギーの充足はその基礎の部分に大いに助けになってくれる。
逆に頻繁に射精すると、根源的な活力が不足するのでここぞという踏ん張りが効かないし、
そもそも行動する元気がなくなってくる。
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好きなことは比較的かんたんに見つけることができるが、得意なことはなかなか難しい。
つまり嫌いなことを裏返せば好きにつながるかもしれないが、苦手なことを裏返しても得意とは限らない。
けっきょく他の人が「それってすごいですね」と言ってくれるのをピックアップするのが一番手っ取り早いと思う。
私は30代になるまで自分の強みがなんだかわからなかった。
あまり目立って主張する人間ではないし、たまたま集団で目立つことがあっても、逆に欠点を指摘されることが多かった。
自分でもできないことを人並みにできるようになろう、という意識が強かったとおもう。
それは私の親の教育方針の影響がある。
(義務教育程度のレベルの低さだけど)”得意を伸ばす”より”オールマイティ”を重視する方向だった。
例えば学年平均50点くらいだとして、英語が97点、国語が88点、数学45点をとったとする。
英語と国語については褒められず「数学をもっと伸ばせ」と個人塾に通わされた。
昨今の常識では考えられない嘘みたいな話だけど、実際にそうだった。
散々自虐しているように、理系ではなく文系なのと
「数学が苦手」という自己イメージが強くて「語学が得意」という自己認識が最近(ほんと30代に入るくらい)まで育まれなかった。
それが大学や就職の進路にも如実に反映されていて、
明らかに”得意を伸ばす”ではなく”苦手を克服する”方向に微妙にブレている。
親も教育心理学には無知だっただろうから仕方ないけど、できている部分を伸ばせばその影響が波及して、
他のジャンルのスキルも伸びていくのが今の教育では(たぶん)常識だ。
話が逸れたが、そういった経緯もあってなかなか強みが自分ではわからなかった。
蓄精ブーストが効いているときと失速したときの落差が大きく、躁鬱のような激しく乱効果するコンディションもあいまって、
20代前半くらいまではかなり”自己探求”に苦労した。
あとは「そんなの俺の強みじゃねぇ。これが俺のやりたいことだ」とかいう自我の強さも、あるいはあったのかもしれない。
素直に人の助言を考慮する心の広さは持っておいた方がいいな。
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たとえば「ポップス系の歌が上手い」とか「サッカーのシュートを決めるのが上手」「棋譜を覚えて的確な一手を素早く指せる」という
誰の目にも明らかな得意分野が早期に見つかって、なおかつそうしている自分が好きならラッキーだろうなと思う。
だからと言って、それが得意な人間だれもが歌手やスポーツ選手や将棋棋士を目指すべきとはならない。
あまりnoteという媒体は好きじゃない、というか嫌い、はっきり言って気色悪いとすら思っているが、
この筆者は自らnoteを否定しているのが気に入った。ので半分くらい記事を読んだ。
物質的な価値を生み出す労働者より、付加価値的なスポーツ選手が脚光を浴びて賞賛されるのは、
そういうマーケットがあるからだということに尽きると思う。
正直言って、私はスポーツなんてあってもなくても構わないと思っている。
大の大人がタマ蹴りや短距離ダッシュを競っているのを見ても特になんとも思わない。
「暇なんだな」とは思わないけど「応援します!感動をありがとう!!」とかは1ナノメートルも思わない。
応援が生き甲斐みたいな人に対しては、「時間もエネルギーも余っていていいね」とちょっと思う。
アーティスト系に関しても、時代がそれをお金に換える仕組みを用意しているから流行るのであって、
(もちろん好きなミュージシャンはいるけど)スタジアムで何万人とかさすがにやりすぎだろ、と正直引いている。
将棋とか囲碁はよくわかんない。チェスをたまにコンピュータ相手にやるくらい。
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成功の中にある、外部要因であるタイミングと環境が見過ごされがち。
だから努力とか”続けることが才能”みたいな発言が、たしか有名な野球選手や棋士から出ていたと思うけど、単なるポジショントークにしか聞こえない。
本田圭佑という元サッカー選手が「環境を変えろ」という発言をしていたが、
こちらの方がより本質を突いている気がする。
さすがに環境を変えたとて、素人がいきなりプロにはなれないが、
三流が二流に、二流が一流になる例をたくさん見たんだと思う。
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”運という隠し要素”
得意なことはなんとか見つけた、それを好きで続けることもできそう
切磋琢磨したり活躍したりできる環境にも身を置いた。
できることは基本的にはここまでだと思う。

運ということについてここ数ヶ月、わりと真剣に考えていた。
もちろん考えているだけじゃ運は降ってこない。
それでも自分の半生を振り返って「あきらかにラッキーだった」と思える状況や前後関係を振り返ってみた。
運は乱数的なランダム発生要素。自分のコントール外。だから制御不可。
そう結論づけてしまうことは簡単だ。
特に経営者に多いが「自分がここまでこれたのはラッキーだった」と発言する人は多い。
成功に関しては、能力ではなく運が大きなファクターだとする研究すら存在する。
リンク先の和訳、要約を読めば少なくとも今後は
『成功するヒトがもつX個の法則』というなんちゃって成功哲学を称した自叙伝を買わずに済む。
話を戻して、才能ではなく運が大切という話。
上記の論文は「だから誰にでもチャンスはあるんだ」というポジティブな話というわけでもない。
>報酬や資源は通常、すでに高いレベルの成功に到達した者に与えられるため、誤って能力・才能の尺度として考えられているが、この結果はさらに有害な阻害要因となり、最も才能ある者に機会の欠如をもたらす。
>平均的な才能を持つ人々の成功は、「実力主義」パラダイムや、その分野で最も優れていると考えられる人々により多くの報酬、機会、栄誉、名声、資源を与えるあらゆる戦略やメカニズムに強く挑戦している [44, 45]。重要なのは、大多数の場合、誰かの才能に関するすべての評価は、その人のパフォーマンスや、スポーツ、ビジネス、金融、芸術、科学など、私たちの社会の特定の分野における到達結果だけを見て、事後的に行われるということです。
>刺激的な環境、豊富な機会、資金や資源の適切な配分戦略が、最も優秀な人材の潜在能力を引き出し、中程度の才能を持つが運の良い人材に対して、より多くの成功の機会を与える重要な要因であることを示してきた。
・そもそも報酬や資源を与える客観的な評価基準がない、もしくは機能していない
・成果を見て”才能がある”と外的な評価を与えられている
・たまたま上手くいったことを「自分は実力がある」と思い込む
・普通程度の人の方が、専門的に突出している人より色々なことをやるから当たりを引きやすい
ということだと思う。
逆説的に導き出せる結論としては、
・自分が得意とする手法
・自分が好きだとおもえるジャンル
これらをクロスする領域で、色々な角度からなんどもトライをすることで運が転がり込んでくる可能性を上げることができる。
さらに言えば成功者は運がよくなる行動を自然と取っているだけかもしれない。
少なくとも、運が良くなる行動がとれるようにモチベートしている。

サッカーは別にそこまで興味はないが、ブルーロックの中で描かれるロジックや現実主義はけっこうためになった。
”強みを見つける”とか”ゴールの方程式”とか言いつつも、
そもそも全国の強豪フォワードとして招集されていなければ土台にも上がれない。
まずはステージに上がる、という一歩を踏み出すというのが大事でそれが何よりもの”開運行動”だと思う。
サッカーで世界一になる基準はよくわからないが、少なくともクラブチームには所属したり、SNSでテクニック動画を上げたりはするだろう。
マッチングアプリで無双する人は自分に合うマーケットで、効果的なプロフィールとトークスクリプトをもっている。
宝くじに当選する人ですら、定期的に買うという行動をとっている。
得意と好きを続けられる場所で、適切なタイミングまで動静を繰り返す。
得意なことを洗い直す、好きなことを見つめ直す、環境を変化させるのも行動の範囲だ。
私も引き続き、正しい方向への開運行動を行っていきたい。
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